こんにちは、ジャカルタで暮らす会社員のサントソです!
先月、ファタヒラ広場やインドネシア銀行博物館等、コタ・トゥア(Kota Tua)エリアの紹介をしました。良い場所なのですが、ちょっと遠い…と思うかもしれません。場所はモナスやコタよりも更に北に有りますし、渋滞がひどいことを考えると更に行く気を無くしてしまいます。せっかくコタ・トゥアに行くのであれば、まとめていろいろ見たい!と思う方のために今回はコタ・トゥアエリアで楽しめる場所を紹介したいと思います。
まず、以前紹介したジャカルタ歴史博物館に何が有るのか詳しく見ていきたいと思います。(以前の記事はこちらをご覧ください。)場所はこちら。
ここではバタビア時代を中心にジャカルタがどんな歴史を歩んできたのか勉強することができます。そもそもジャカルタという都市ですが、以下の通り名前を変えてきました。
スンダクラパ/Sunda Kelapa (397 – 1527)
↓イスラム軍がポルトガル軍を追放して名称変更
ジャヤカルタ/Jayakarta (1527 – 1619)
↓オランダ東インド会社が制圧し、名称変更
バタヴィア/Batavia (1619 – 1942)
↓日本が制圧し、名称変更
ジャカルタ/Djakarta (1942 – 1972)
↓ジャワ語からインドネシア語に変更
ジャカルタ/Jakarta (1972 – 現在まで)
ここでトリビア!江戸時代にオランダとの交易が有った日本ではジャガタラやジャガトラ(Jacatra)という名前が定着していました。当時、日本ではジャワ島から調達していた芋を「ジャガタライモ」と呼び、それが今日の「ジャガイモ」になったのです!明日から知り合いに披露してみてください。
話は戻って、こちらが入り口のチケット売り場で、外国人はRp50,000でした。
中に入るとこのような感じで当時使われていた道具や年表が展示されていますが、その中でも印象に残っている展示物を紹介します。
こちらの大きな絵は以前もチラッと出てきましたスルタン・アグン(Sultan Agung)が描かれています。スルタン・アグンは16世紀にジョグジャカルタ地方に栄えたマタラム王国(新マタラム王国)3代目のスルタン(君主)です。当時、ジャワ島征服運動で1626年にバタビアに攻めこんだことがありましたが、1755年にオランダ東インド会社の介入によってジョグジャカルタとスラカルタの2王家に分割され、マタラム王国という国名は消滅しました。この絵では少し見にくくて申し訳ないですが、一番左にスルタン・アグンが描かれています。1973 年から 1974 年にスジョジョノ(Sindudarsono Sudjojono)という画家が描いたもので、右、中央、左の3部で構成されています。
右 :左から第4代オランダ東インド会社総督のヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)とマタラム大使のキヤイ・ランガ(Kyai Rangga)
中央:オランダ東インド会社とマタラム王国の闘争
左 :バタビアを攻撃する戦略を練るスルタン・アグンと部下
よりはっきりとした絵が見たい方はインドネシア語となります、こちらのサイトをご覧ください。3m×10mの迫力ある絵ですので、是非本物も見てみてください。
建物内の展示物を見た後、中庭に出てくるのですが、そこにバタビア時代に使われていた拘置所が有り、実際に見ることができます。
こんな感じで昼でも暗く、屈まなければならないくらい天井が低いんです。また、写真に写っている錘を足につけていたことから動くこともままならない状態で収容されることになります。また、地下に設けられている為、拘置所から見える景色は壁だけで気分的にも滅入ってしまいます。辛いですね。衛生環境もよろしくなかったようで、多くが裁判を受けることなくコレラ、チフス、酸素不足で死亡してしまったようです。絶対に収容されたくない場所ですね。
最後はお土産物屋を見ました。ジャカルタやインドネシアにまつわるものから、これ著作権的に大丈夫か?と心配になるものまでありました。結構面白かったですよ。博物館に行った際は是非立ち寄ってみてください。
以上になります。他にも日本の有田焼等、面白い展示物も有るため、是非行ってみてください。因みに開館時間は午前9:00から午後3:00までなので、訪問の際は時間に注意してください。
次回もお楽しみに!Sampai Jumpa(サンパイ ジュンパ=またね)!